東京地方裁判所 昭和59年(ワ)14935号 判決 1985年4月17日
原告
梅原幸作
加藤秀昭
宮沢秀夫
新屋次広
原告ら訴訟代理人
恵古和伯
恵古シヨ
被告
坂崎彫刻工業株式会社
右代表者
坂崎浩一
右訴訟代理人
多賀健次郎
中村幾一
主文
一 被告は、原告梅原幸作に対し金一三〇万円、原告加藤秀昭及び原告宮沢秀夫に対し各金一二二万円、原告新屋次広に対し金七四万円並びにこれらに対する昭和五八年九月一日から各支払済みまで年六分の割合による金員をそれぞれ支払え。
二 訴訟費用は被告の負担とする。
三 この判決は、仮に執行することができる。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告ら
主文と同旨。
二 被告
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二 当事者の主張
一 請求原因
1 被告は、機械彫刻、手彫彫刻加工を業とする会社であり、原告らは、次のとおり、被告会社と雇用契約を締結して勤務し、任意退職したものである<編注・左表参照>。
(原告)
(雇用年月日)
(退職年月日)
(勤続年数)
梅原
昭和三一年三月二六日
昭和五七年一二月二九日
二六年
加藤
昭和三二年三月二六日
昭和五七年一二月二九日
二五年
宮沢
昭和三二年三月二六日
昭和五八年一月七日
二五年
新屋
昭和三八年三月二六日
昭和五八年一月七日
一九年
2 被告会社には退職金規程があつて、従業員が勤続三年以上で定年前に死亡以外の事由により退職したときは中途退職一時金を支給し、その額は、勤続年数に従い、勤続二六年は一三〇万円、同二五年は一二二万円、同一九年は七四万円とすると規定している。
3 原告らは、退職当時、いずれも被告会社の取締役の地位を兼有していたが、被告会社は、昭和五八年一月三一日に取締役会を開催し、原告らに対する役員としての退職金は支給を留保するが、従業員としての右2の退職金は同年二月末日に支給することを決定した。
4 原告らは、被告会社に対し、昭和五八年八月三一日、代理人を介して右退職金の支払を請求した。
5 よつて、被告に対し、原告梅原は一三〇万円、原告加藤及び原告宮沢は各一二二万円、原告新屋は七四万円の退職金と、これらに対する請求の日の翌日である昭和五八年九月一日から各支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求める。
二 請求原因に対する認否
請求原因事実はすべて認める。
三 抗弁
1 原告らは、被告会社の取締役兼従業員の地位にあつたものであるが、昭和五七年秋ころから当時の被告会社社長であつた酒寄英雄と共謀して、被告会社の全従業員と共に、同年一二月末日をもつて一斉に退職(職場放棄)し、既に設立してあつた江東彫刻株式会社に翌五八年一月初めから就職し、被告会社の全顧客に対する営業上の権利を奪つて被告会社と全く同一の事業を一時のすきもなく継続した。この所為は、商法二五四条の三の取締役の忠実義務違反、同法四八六条の特別背任罪を構成する故意の不法行為である。
被告は、原告ら各自に対し、右の不法行為に基づく損害賠償債権として総額三億〇七四五万九〇〇〇円を有し、うち二八四九万五〇〇〇円は昭和五八年一月三一日までに発生し、即時履行期が到来している。よつて、被告は、原告ら各自に対し、昭和六〇年二月一三日の口頭弁論期日において、右債権をもつて原告らの請求債権と各対当額で相殺する旨の意思表示をした。
2 労働基準法二四条一項が定める賃金全額払の原則も、すべての場合に一律に賃金債権に対する相殺可能性を否定したものではない。民法五〇九条の法意に照らしても、不法行為に基づく損害賠償債権をもつて賃金債権との間で相殺することを認めることが、不法行為の防止に役立つし、また、損害賠償債権の履行を容易ならしめる。労働者が故意の不法行為によつて使用者に損害を与えたときには、使用者の損害の現実の填補の必要性も十分首肯し得るところである。このような事例では、相殺の許否は、信義則、対立する利害の権衡等を具体的、個別的に判断して決すべきである。
原告らの請求債権は退職金債権であり、退職金が労働の対償としての賃金であることに異論はないが、賃金の生活費たる側面においては、給料等の平常の賃金と喫緊性を異にする。労働基準法は、賃金のこの生活費たる点に着眼して、賃金の保護を図つているのである。民法五一〇条、民事執行法一五二条もまた、同様の趣旨から、差押禁止債権とこれに対する相殺禁止を定めているが、民事執行法一五三条は、旧民事訴訟法六一八条を改正して、債務者及び債権者の生活の状況その他の事情を考慮のうえ、個別的、例外的に差押禁止債権の全部の差押えを許し得ることを認めるに至つている。
原告らは、被告会社退職後も、生活費たる平常の賃金は江東彫刻から全く遅滞なく受け取つている。これに対し、被告会社は、原告らの前記所為によつて、昭和五八年一月以降少なくとも一年間は休業同然の状況に追い込まれるに至り、退職金支払の余地なき状態になつたのである。このような事情を考慮すれば、原告らの退職金債権は、民事執行法一五三条により差押禁止債権たることを除外されるべきものであり、したがつて、民法五一〇条の相殺禁止にも該らず、また、労働基準法二四条一項の賃金の生活費たる側面に着眼した法規制の目的からみて、これによる相殺禁止を必要とするほどの喫緊性を有しない。
よつて、この相殺は許されるべきである。
四 抗弁に対する認否
1 抗弁1のうち、原告らが被告会社の兼務取締役の地位にあつたこと、請求原因1のとおり被告会社を退職したこと、及びその後江東彫刻に就職したことは認めるが、その余は争う。
2 原告らの請求する退職金は従業員としての退職金であり、これは労働基準法一一条に定める賃金であるから、仮に被告が原告らに対して損害賠償債権を有しているとしても、同法二四条一項により、相殺は許されない。
理由
一請求原因事実は、すべて当事者間に争いがない。
二被告は、抗弁として、不法行為に基づく損害賠償債権をもつて原告らの退職金債権と相殺する旨を主張する。
しかし、原告らの請求する退職金は、従業員としての退職金であつて、労働基準法一一条にいう賃金に該当する。そして、同法二四条一項は、いわゆる賃金全額払の原則を定めており、これは、労働の対償である賃金は、その全額を、労働の提供をした労働者に確実に受領させ、労働者の生活を経済的に脅かすことがないようにしてその保護を図ろうとする規定であつて、労働者の賃金債権に対しては、使用者が労働者に対して有する債権をもつて相殺することを許さないとの趣旨を包含するものと解するのが相当である。そうであれば、この趣旨は、使用者が労働者に対して有する反対債権の発生原因を問わず妥当すべきものであり、その債権が不法行為によるものであつても、例外となるものではない。
もつとも、この賃金保護の要請も絶対的なものとまでは解されないから、民法五〇九条の法意に照らせば、労働者に使用者に対する明白かつ重大な不法行為があつて、労働者の経済生活の保護の必要を最大限に考慮しても、なお使用者に生じた損害の填補の必要を優越させるのでなければ権衡を失し、使用者にその不法行為債権による相殺を許さないで賃金全額の支払を命じることが社会通念上著しく不当であると認められるような特段の事情がある場合には、この相殺が許容されなければならないものと考えられる。
しかし、本件においては、被告が主張する不法行為は原告らの取締役としての不法行為であつて、それ自体必ずしも明白なものとはいえないし(弁論の全趣旨によれば、被告は原告らに対し、本件抗弁で主張するのと同一の損害賠償を請求して別訴を先行提起しており、この訴訟が現に審理中であることが認められる)、他方、原告らの請求は従業員としての退職金であつて、その額も高額ではないから、退職金であるからといつて当然に喫緊性を有しないものとはいえず、また、被告会社においても、原告らの退職の約一か月後に、しかも被告の主張によれば既に二八四九万円余の損害が発生していたという時点で、原告らに対し、役員としての退職金は支給を留保するか、従業員としての退職金は支給すべきであると決定しているのである。これらの事情によれば、いまだ、被告主張の不法行為債権をもつてしても、原告らの退職金債権との間の相殺が許容されなければならないような特段の事情があるものとは認めることができない。
したがつて、被告の抗弁は失当である。
三そうすると、原告らの本件請求はいずれも理由がある(被告会社の退職金支払債務は期限の定めのない債務というべきところ、賃金である退職金については、その性質に反しない限り、労働基準法二三条の適用があるものと解されるが、本件においては、被告会社において内部的にではあるが原告らの退職の約二か月後の昭和五八年二月末日を支給期日と定めており、また、原告らの支払請求は更にその六か月後にされているのであるから、同条の趣旨にかんがみれば、このような場合にまで被告会社に請求後なお七日間の期限を認めるべき必要があるものとは考えられない)。
よつて、原告らの本件請求を認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官片山良廣)